もうすぐ11月17日なので

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平成2年11月17日、午前7時40分。
 私は当時、航空カメラマンとして離島と本土を結ぶコミューター路線を運行する小さな航空会社に勤めてました。その日の午後はスカイダイビングショーに使用するという機体『セスナ172』に搭乗し暇つぶしのフライトに出かける事に。
 向かう先は長崎県南高来郡小浜町上空。そのセスナの本当の運用目的は航空宣伝であり、後ろには大きなラッパが付いていて企業から委託された宣伝を旋回しながら鳴らす。
 約10分で小浜町上空にさしかかり航空宣伝に入る。しかし機長の橋口さんと私は異様な光景を目にしていた。雲仙の山がおかしい…
 小浜警察署と小浜消防署から緊急車両が出動しようとしていた。私と橋口機長は航空宣伝を切り上げ異様な光景の雲仙普賢岳を目指した。すごい火事だ…そう思いながら雲仙の紅葉が奇麗な尾根上空を飛ぶ、そして2本の煙が天高く立ち上げる筋の全貌を見たとき二人して驚き叫んだ! 『噴火しとる…』次に私が機長に言った言葉は『降りて!降りろ!機体をさげて!』私は暇つぶしに乗っていたのでカメラはペンタックス6×7ボディー1台、レンズは105ミリ1本、フイルムはRDPの220を1本持っているだけである。それでもシャッターを切りたくて噴火している火口がよく見える高度まで降りさせた。火口そばには普賢神社があり、そこには観光客がいた。すぐそばまで高温の泥湯が吹き出している。危ない…そう思いながらも普賢神社に向かってシャッターを切った。『もっと降りろ!』と言ったら『これ以上降りたら山にぶつかる!』という返事、あ!本当だ、山の木がフロントガラス直前だ(笑)なるほど標準レンズで画面いっぱいに火口が写ってる訳だ(笑)
 当然、フイルムはすぐに終わってしまう。フイルム補給の為に戻りたい、着陸許可を管制塔に促すと共に『普賢岳が噴火しています』と日本語で報告、すると『普賢岳噴火了解しました!おつかれさまです!!』 ????信用してないぞ?(笑)
 着陸後、すぐにフイルムと機材を積み込んで普賢岳に戻った。220のフイルムを100本は持って上がった。それでもすぐに使い切ってしまう(笑)そうこうしている間に他の取材ヘリとセスナで上空はごった返してきた。20機はグルグル旋回している。セスナとヘリは旋回方向が違うから衝突しそうだ、しかもスピードも違う…その日は危ないので帰還する事にした。
 この日が198年ぶり噴火した普賢岳と島原半島の戦いの始まりだった。




 平成3年6月3日、その日は朝から雨だった。成長する溶岩ドームからは崩落する火砕流がしばしば発生するようになっていた。その溶岩ドームが雨で土石流となり水無川を流れてゆく。その日集まった報道陣は土石流の様子を収める為に『定点』と呼ばれるポイントに行っていた。
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e0002316_1602517.jpg私も溶岩ドームの様子を撮る為に島原入りしていたのですが、山頂は厚い雲に覆われていた。3時頃になって今日は無理だと思って島原を離れた。
 しばらく走るとクルマのラジオからとんでもないニュース。『大火砕流発生!!』  大野木場小学校が燃えている…あ!ヤバい!定点を火砕流が超えてしまった。あの報道陣は大丈夫か?
 私はクルマをUターンさせ島原を目指した。真っ黒の雨だかなんだか解らないものが降ってくる。情報収集の為に持っていた無線のレシーバーの電源を入れたら○○新聞の誰と会ったら連絡するように言ってくれとかNHKクルーが行方不明(眉山に逃げてて無事)とかいろんな話が飛び交ってくる。結局は規制の為に島原に入る事はできなかった。
 本当ならば私も定点から溶岩ドームを撮る事になっていた。あのとき雲が晴れたら…現場に行って撮れない事を確認するために上ってたら…私も44人目の犠牲者かもしれなかった。

 すいません、長々と…写真は旧大野木場小学校の被災校舎と今日の普賢岳。熱と衝撃で窓枠が変形し鉄棒も曲がってます。今はこの噴火災害の証人として保存され、外から見学する事ができます。
 山は15年前と同じように青空が奇麗で緑を取り戻そうとしています。
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by tamoto_lc80 | 2005-10-18 16:20
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